アメニティーフォーラム22

アメニティーフォーラム22

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アメニティーフォーラム22

アメニティーフォーラム22

2月9日~2月11日に滋賀県で開催されたアメニティーフォーラム22に参加してきました。今年も深夜25時までプログラムが組まれており、見どころ満載のフォーラムでした。3日間にわたる各セッションでは、障害福祉に関する課題や今後の方針などが、国、行政、現場レベルで熱く議論されており、日本の障害福祉に携わる全ての人の熱心で前向きな気持ちがこのフォーラムに集結しているという空気感を今年も味わうことができ、たくさんの収穫があった3日間でした。
最終日の3日目には、高次脳機能障害セッションが設けられており、滋賀県高次脳機能障害支援センターの小西川梨紗先生が進行役をされた「今ある活動メニューで高次脳機能障害のある人を支援する」と題したシンポジウムには、名古屋市総合リハビリテーションセンターの鈴木智敦先生、NPO法人楽笑の小田泰久先生と共に私もシンポジストとして登壇させて頂きました。その後、名古屋市総合リハビリテーションセンターの鈴木智敦先生が進行役で「高次脳機能障害を支援する法律の早期制定を」と題したシンポジウムが行われ、前半のシンポジウムでディスカッションされた現場レベルでの課題を受けて、公明党の山本ひろし先生、自民党のおおくま和英先生、日本脳外傷友の会の古謝由美先生、全国手をつなぐ育成会連合会の又村あおい先生が、高次脳機能障害を支援する法制定の必要性や、制定された場合の期待される事項、懸念される事項などを真摯にお話しくださいました。
シンポジウムの中でも公明党の山本ひろし先生がご報告くださいましたが、第7次医療計画に高次脳機能障害が入り、平成30年度の厚労省の研究事業が始まったことなど、この1年間で、たくさんの方のご理解とご協力があり、高次脳機能障害支援拡充の動きは着実に歩みをすすめています。感謝の気持ちしかありません。皆様にたくさんのお力を頂きながら、我々も自分たちにできることをコツコツと実践し続ける所存です。これからもご指導の程よろしくお願いいたします。
-------------------理事長メモの一部-------------------
2018年2月9日、僕は今、滋賀県で開催されているアメニティーフォーラム22に参加している。今、「私たちは、自信をもってC型就労を提案します。~福祉現場でも取り組む事ができます!~」というシンポジウムを聴き終わったところだ。シンポジウムの中で、NPO法人楽笑の小田泰久さんの実践報告を聴き、少し勇気がもらえた気分になった。小田さんは障害がある方もそうでない方も共に地域で暮らしていけるまちづくりという理念を強調し、そのためには、法人主体で福祉を考えるのではなく、地域を中心にすることで、街ぐるみの展開ができると話していた。当法人でもここ数年、障害福祉にかかわる様々な方と意見交換を重ねていく中で、農福連携という言葉を改めて深く考える機会が何度かあった。高齢化などに伴い担い手が減少傾向にある農業。働く場所や自分の居場所などについて悩んでいる障害者。農業と福祉が連携しお互いを助け合うという活動は、高次脳機能障害支援に携わる我々にとっても明るい未来に繋がる一手段になり得るのではないかと考え、積極的に取り組む事を決めた。僕たちは農業と福祉に、文化や地域という視点も加え、高知県の伝統文化のひとつである土佐和紙に着目し、その原料である楮の栽培に取り組むことにした。一方で、高知県で開催されるよさこい祭りに出場しているPRIME MEMBERというチームにも声をかけ、今年からは、チーム存続の資金確保を目的に、チームスタッフで楮の栽培に取り組む予定となっている。土佐和紙、よさこい祭りという伝統文化を軸として、過疎化が進む村の畑に、高齢者と障害者、若者が笑いながら話のできるコミュニティを築けれるのではないか、そんな思いから取り組んでいるが、思い通りにいかないことが多々あり、最近は少し気持ちがめげていた。小田さんは地域を軸にもう十数年もこういった活動を続けている。わずか数年で根を上げるわけにはいかない。きっと、来週畑に行った時、僕は、今までよりも力強くチェーンソーを握っていると思う。
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2018年2月10日、青柳正規先生、小室等先生、北村成美先生、田端一恵先生が登壇された「作品として社会化するということ、選ばれないということ、選ばれるということ」というシンポジウムを聴き終わった。ものすごく根本的な言葉にしにくい感情が自分の中に惹起されている。何かが欠落している人をみて、大多数の人がその欠落がない事を知っている僕らは、その欠落を異常と表現したり、障害と表現したりする。僕らより何かが足りないと表現したり、僕らより能力が低いと表現したりする。たしかに量的に考えれば2は1より多いし、1は2より少ない。でも、パーセンテージで表現すれば、どちらも100パーセントなわけで、それがその人の100パーセントであり、そしてまたその100パーセントはそれぞれのありのままの100パーセントであるといえる。その人にしか生み出せない、その人にしか発揮できない、2つと同じものはない、その人それぞれの100パーセント。良いか悪いか、自由か不自由か、そのようなことは、その事象に後付けされる見方や切り口でどうにでも変わるのではないか。うまく言葉にはできないが、高知に帰って、仲間たちと深く議論してみたい。
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